08 「ところで」 「……はい」 リラが落ち着きを取り戻した頃、青年は口を開く。頭上を指差して何かを伝えたそうにしていた。 誘われるがままに、リラは手を頭部にスライドしていく。触れたのはふわふわとした感触。刹那、嫌な汗が頬を伝った。 「見えていますよ、それ」 彼女は言われて気づいた。黒兎である象徴の黒い耳が天高く伸びている。人間に知られるのは、まずい。思わず怯えた視線を青年に送った。 「い、いつから……」 「先程ですよ。あの輩共には見えていませんのでご安心ください」 しかし青年の方はというと、リラの傍らに落ちていた布を拾うとそれを彼女に被せ、子供をあやすような手つきで数回ぽんぽんと叩いてみせた。 予想していた反応と百八十度違う対応に、リラは鳩が豆鉄砲を食らったような気分になる。 「心配なさらないでください。わたくしは伝承や言い伝えは信じておりませんので、誰かにばらすなどといった無粋な真似は致しませんよ」 それに、と青年は続ける。 「今の貴女の状況を見て、どこが災厄を運ぶ者だと言えるでしょうか」 リラは頬を手で覆った。自分の顔が更に紅潮していくのを、直に感じていた。きっと耳まで真っ赤だろう。恥ずかしくて気がおかしくなりそうだ。けれど青年の側から離れたいとは思わない。不思議なジレンマに追われて、彼女はすっかり逆上(のぼ)せきっていた。 不意に青年は立ち上がる。釣られてリラも立ち上がりそうになるが、腰が抜けてしまったのかそれは叶わなかった。 「ここでお別れです。また機会がありましたら」 思わず手が伸びた。しかしそれは虚空を切った。青年はほんの数秒の間に、人混みに紛れてしまった。 まるで絵空事を体験したような、不可思議な浮遊感が彼女を纏っていた。布を指で撫でると、麻袋を持ち直して前を向いた。 また会えないだろうか、そんな期待がリラの胸のうちに芽吹いていた。 「リラ……?」 まるで青年と入れ違いになるかのように、ユギは直後に戻ってきた。彼女の側で倒れている男達の姿を視認した彼は、目の色を変え彼女の元へと駆け寄る。すごい剣幕で近寄られたリラは思わず肩を揺らして、数回瞬きをした。 大丈夫か、そう呟いて彼はリラの頬に触れようとする。しかし爪先が当たりそうになった直前にぱっと手を離すと、口をもごつかせた。 気を紛らわすようにして、ユギは男の方へと目線を変える。リラは挙動不審になったユギがなんだか面白く思えて、小さく笑った。 それからリラは、ユギがいなくなってからのことを話した。突然男達が現れて、襲われそうになったこと。青年が彼らをやっつけてくれたこと。ユギは黙って聞いていたが、リラが話し終えると小さく「すまない」と呟いた。 リラは首を振って、気にしていないことを伝えた。本当は「帰ってくるのが遅かったからこんな目に遭った」とむくれてしまいたかったが、青年に耳を見られてしまったことをどうしても言えなかった後ろめたさを感じ、口を閉ざす他なかった。 二人は再び手を繋ぐ。一歩踏み出して、人の波に飲まれていく。街の人に聞いたのだろう、ユギの足取りは心なしか軽いものだった。迷いなく運ばれていくその先には、レトロな雰囲気が特徴的な小さな薬品屋が佇んでいる。 二人は中に入った。手動でこじ開けるタイプの扉だったためか、入店するまでに数分かかってしまったのは笑い話に出来よう。リラは非力なのでもちろんのこと、傷が響くユギにとって重い扉を開くことは大変な思いをする羽目になった。 入店した直後、店員から暖かい拍手をいただく。二人は羞恥に身を縮こませ、出来る限り目立たないように行動を始めた。 忍び足で店内を歩く。欲している薬品の種類はリラにしかわからないため、時折小声で会話した。 リラが欲しがっていた薬は難なく見つけ出せた。それが詰められた瓶を片手に、彼女はレジへと向かう。勘定を担当していたのは丸眼鏡をかけた老婆だった。老婆はリラににこりと微笑む。 彼女は一息ついた。同性なだけまだ安心できる。ほっとして瓶を老婆のそばに差し出した。 「これ、いくらですか?」 「10 euros s'il vous plait」 「……え?」 「10 euros s'il vous plait」 しかし予期せぬ事態に、リラは暫しの間固まってしまった。言葉が、通じない。これでは、いくら買いたくても買うことが出来ないではないか。 リラは目をぱちくりさせて老婆を見ていた。老婆は細めた眼でリラを見つめるばかりである。 そんな中、リラが握り締めていた麻袋をユギが半ば強引に奪い取り口を開く。 「voila《これで》 monsieur《たりるか》」 「merci(ありがとう)」 袋に手を突っ込んで紙幣を何枚か差し出した彼は、ぶっきらぼうに老婆につき出した。老婆はそれを受け取るとお釣りをユギに渡す。 状況に置いていかれているリラは思考する時間も与えられないまま、ユギに手を引かれてその場を後にした。もっと見て回りたいと思うのは、彼女もまた女の子であるからだろうか。 ユギは足早に地面を蹴る。強く握られた手首は彼が速度を早めるたびに引っ張られていく。 「ユギ、ここの言葉がわかるの?」 リラは問いかける。歩くスピードが仄かにゆっくりになる。 「私は天才だからな」 彼が答えたのは、たったそれだけだった。 リラは小さく笑う。彼らしい返答だと純粋に思えた。 太陽は空高く昇っている。陽射しは暑く、街や人々を照りつける。蒸し暑い人混みに紛れて音も散り散りになる表通りは、これから更に賑わいを見せることだろう。 布に隠された耳に届くのは、沢山の人が交わす会話の断片。聞き取ることなど出来やしないこの状況下で、リラは何気なしに呟く。 「私のこと助けてくれたんだよね。ありがとう、ユギ」 一瞬、リラの手首を握るユギの力が強まった気がした。 「……助けてやれなかっただろうが」 悔しげに吐き出された彼の言葉は、リラの耳に届くことはなかった。 |